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■第19話:偶然から生まれた現在の私の原点
 知り合いのバンドである「シネマ」が月に1回のペースでやっていた「東京ネットワーク」というギグでは、色々なバンドを観たが、殆どセミプロのようなバンドばかりで、皆とても上手だった。バンドとしてはまだデビューはしていないが、メンバー個人々々は誰かのバックバンドをやっていたりして、いわゆるプロのミュージシャンとして仕事をしている、というようなバンドもあって、これでは上手なのも当然だと思った。自分や、自分の極く身近に居る趣味でバンドをやっているような連中とは余りに違うので、ちょっとガク然とする時もあったが、向こうはプロ、こっちは趣味でテキトーにやっているだけだから、これでいいのだ、などと、今から考えれば、何とも後ろ向きな納得の仕方をしたものだった。後ろ向きというよりも、ただ単に呑気なだけだったのかもしれないが。ただ、そんな上手なバンド達と比べてみても、「シネマ」はとても良いバンドだった事は間違いない。

とは言え、シネマのメンバーは4人だが、全員音楽以外の仕事で生活費を稼いでいた。ドラムのムーチョ氏はトラックの運転手だったし、ベースの一色君はビルの窓拭きのバイト、ボーカルとキーボードの松尾清憲氏は、確かレストランだか喫茶店だかのウェイターをやっていたし、ギターのヤッちゃんはガソリンスタンドの店員のアルバイトをしていた。
因みに、同じガソリンスタンドで芋生君も働いていて、後に私もそこで働くことになるのである。あまり関係はないが。

そのうち、シネマもついにレコードデビューすることになったのである。プロデュースは、ムーンライダースの鈴木慶一氏、レコード会社はCBSソニーで、まずハウスのコーヒーゼリーのCMとタイアップするシングルを出し、のちにアルバムを出すという事になったのだ。月1回の「東京ネットワーク」も益々盛り上がって、バンドとしての勢いも加速し、これから、という時に大変な事が起きてしまった。何とベースの一色君が、窓拭きのバイトの最中に落下事故を起こしてしまったのである。聞いた話によると、2階ぐらいの高さだったからそれ程高い所から落ちた訳でもなく、また周囲は芝生だったそうだが、何と運の悪い事に落下地点にちょうど鉄のマンホールのフタがあったという事だった。勿論本人の命に別状はなかったが、腰を傷めてしばらく楽器を奏く事が出来なくなってしまったのである。怪我自体は幸い大した事はなかったのだが、その時決まっていた次回の東京ネットワークのライブに出るのはまず無理、という事になってしまい、困ったのは他のメンバーである。
デビューも決まっていて、レコード会社やその他の業界関係者も見に来る事になっているので、ライブを中止する訳には行かない。とは言っても一色君はベースを奏けない。そこで今回だけは誰か別の人間にベースを頼もう、という事になって、何と私に白羽の矢が当たったのである。
趣味でベースをやっている気楽なアマチュアベーシストであった私は、最初は勿論強硬に拒否し たのは言うまでもない。そんな責任のあるプロのステージが、単なるアマチュアバンドマンに過ぎない自分に、努まる訳がない、というのが理由であるが、プロのステージに恐れをなして、尻込みして しまった、というのが本音である。私は意外にも(でもないかも知れないが)気が小さかったのだ。それに、明らかに私よりも上手だ、と思われる人達が周囲に居た、という事も確かである。ところが、まあ日にちも迫っている事だし、曲もカンタンだから大丈夫大丈夫、とか何とか言われて結局やる事になってしまったのだ。極く身近に居ていつもウロウロしている私が結局一番頼み易かったのだろう。
シネマは、CBSソニーからデビューする事になっていたので、リハーサルも信濃町にあったソニーのスタジオで何回かやった。私達は日頃バンドで「練習」をしていたが、プロはやはり「リハーサル」だ。何故か英語である。

私がやる事になった日は、シネマの他に「プラネット」と「ホットランディング」という2つのバンドも出る事になっていて、国立にある公民館のような場所を借りて、3つのバンドでリハーサル、という事もあった。この時初めて、「プラネット」と「ホットランディング」の2つのバンドが演奏している所を見たのだが、両バンドともメチャクチャ上手だった。殆どプロである。驚いたのは、プラネットがとても立派なバンドの機材車を持っていた事だ。2トン車のアルミの箱バンで、楽器を積むという事で荷室にはエアコンまで付けてある。当時私はすでに車の免許を持っていたが、車を買うという事は、個人はおろか、バンドでも考えられない事だったのだ。車を買うだけなら頑張れば何とかなるかも知れないが、車というものは買ってからも駐車場代その他で何かと金がかかる。そんな事は私には全く不可能であった。まあ車を持つ必要もなかった訳であるが。
余談だが、この当時より少し後になってから、機材をリヤカーで運ぶ、という事を真剣に考えた事がある。その当時はリヤカーに乗せた荷物をバイクで引っ張っている人達が今よりもずっとたくさん居たのだ。雨が降るとちょっと困るが、ビニールシートでもかぶせれば大丈夫だろう、車を買うよりは安いとは思うが、リヤカーは一台いくら位するのだろう、そもそもどこに行けば売っているのだろうか、などと考えていた。

プラネットも上手だったが、ホットランディングも上手だった。何と彼らはムーンライダースの連中とも知り合いで、ライダースのライブの前座をやったりしている、という事だった。またメンバーそれぞれが既に音楽の仕事をしているという。ウマいのも当然だったかも知れない。

やがて本番の日が来た。バンド3つだから、1バンドあたりの演奏時間は結構短く、緊張する間もなくアっと言う間に終わってしまったような記憶がある。でも短かったが非常に気持ちが良かったのだ。「なんだもう終わりか。もっとやりたいな」というのが演奏が終わった時の正直な感想である。人前で演奏する事の気持ち良さを初めて知った時でもあった。

一色君の怪我は幸い大事に至らず、彼も程なく元気になって次回のライブには復帰できる事になった。怪我をした事は一色君にとっては災難だったが、私にとっては、一色君には悪いがこの上ない幸運であった。あの時彼が怪我をして一時的にベースを奏く事が出来なくなったが故に、現在の私があるのである。全く、ちょっとした偶然によってその後の道が大きく変わるのだ、という事を痛感せざるを得ない。一色君の代役を一度やった事が、後に本格的なバンドをやるキッカケになるのだが、その辺の事は次回に。
2005/4/15 戻る