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■第16話:作務衣でのクリムゾンライブ!
 世の中はディスコブームだったが、学校(武蔵大学の事。前回、学祭でクリムゾンの曲をやる事になったと書いたが、これは私が在籍していた和光大ではなく、武蔵大の学祭の事である)のクラブではいわゆるクロスオーバーなるものが流行していた。そういうクラブの中でプログレバンドの曲をやろうなんていう奴らは他に居なかったので、私達のバンドは10%の称賛と90%の好奇の目で見られていた。難しい上に時代遅れで、訳のわからない事をやっている奴らだ、という訳である。
その上、普通ロックバンドをやっている若者達は、大抵ひと目でそれとわかる外見をしているものが多かったが、私達は違った。牧田君は殆んど坊主頭だし、私も似たようなものだった。
バンドの練習にはよく作務衣を着て行ったし、下駄も履いて行った。ロックバンドをやっている奴は、普通ロンドンブーツである。私達は、およそロックをやっている人間には見えなかったのだ。
長髪で、皮ジャンを着てヘビ皮のロンドンブーツを履き、エレキギターのショルダーケースを持って歩いている奴を見掛けると、「お!ギタリストが歩いとるぞ!!見てみい。ギタリストやでえ」などとからかったりしたものだった。まぁ、アホである。因みに当時の私は高野山から帰って来て日も浅かったので、日常会話はほとんど関西弁だった。

キングクリムゾンの曲には、インスト、つまり唄の入っていない曲もあるが、およそ半分位は、唄が入っている。問題は学祭の時に誰が唄うかという事だった。ただでさえボーカリストは中々居ないのに、クリムゾンの曲を唄おうなんて奴は更に居なかったのだ。
キングクリムゾンは途中でベーシストが何度か交替しているが、大体いつもベーシストがボーカルを兼ねている。私もイヤな予感はしていたのだが、「クリムゾンは、いつもベーシストが唄っているから、学祭でもお前が唄え」という事になってしまったのだ。ベースだけでも大変なのに、唄もやらなくてはならず、これは本当に大変だったが、練習の甲斐もあって、本番では大受けだった。勿論(何故だ)ステージ衣装は作務衣だった。

武蔵大のクラブの先輩には、ベースがとても上手な高木さんという人が居た。ギターをやっている阿部さんという人と一緒に高中正義の曲やリーリトナーの曲など、クロスオーバーっぽいものをやっていたが、今から考えてもどうしてプロにならなかったのだろうと思う程上手だった。直接楽器の奏き方を習ったことはないが、練習しているのを見に行って、手元をよく観察し、自分で真似をしてみてフォームの勉強をしたものだった。
高木さんはジャズにも詳しく、ギターも上手だったという事だが、その高木さんが、ある時「クリムゾンも良いが、もう解散しているようなバンドよりも、これからはこういうものを聞け」と言って、私の知らない色々なレコードを教えてくれたのである。その中に、マリーナショウや、ウェザーリポート、その他諸々、主にジャズや黒人系のものがたくさんあって、これらのレコードを聞く事によって、ディスコ体験により黒人モノが嫌いだった私が、逆にジャズやR&B、ソウル、ブルースなどが大好きになったのである。だから高木さんにも本当に感謝している。もし高木さんがああいう風に言ってくれなかったら、もしかしたら私は非常に偏狭な音楽趣味しか持てなかったかも知れない。
余談だが(このコラム自体が余談であるが)私は現代のポピュラー音楽はいわゆる黒人音楽の影響を抜きにしては語れないと思う。時々黒人系そのものは好きではない、という人がプロの音楽家の中にも居るが、まあ好き嫌いというものは個人的なものだから、それについてどう、という事はないが、その事によってその人の音楽の世界が狭くなっている事だけは確かである。自分に関しては、そうならなくて良かったと思っている。もしかしたら、今頃音楽などはやっていなかったかも知れない。

私を音楽の道に引きずり込んだ、いや、音楽に開眼させてくれた芋生君は、当時、八王子市の一軒家に住んでいた。最初は違う所にいたのだが、家で楽器の音が出せない、という理由で引っ越したのだ。当時、学生の分際で一軒家などと言うと、贅沢だと思う人もいるかも知れないが、部屋は2つだけ、一番近い電車の駅まで歩いて1時間以上かかる、といった感じだった。家賃も破格に安かったらしい。周囲は殆んどが畑で、交通の便が非常に悪い事を除けば、のんびりしたなかなか良い環境だった。それに彼はオンボロの軽のバンではあったが、車を持っていたので、交通の便の悪さも気にならないようだった。畑の真ん中なので多少音を出しても苦情は来ない。そんな訳で私達は他の友人と共に芋生君の家に入り浸る事になってしまったのである。

彼の家のすぐ隣に、同じ形の家がもう一軒建っていたのだが、これは空き家だった。
後に、この家に武蔵大の友達が、その兄貴と共に住む事になるのだが、これも、後から考ええ見ると、その後の私の人生を大きく左右する事と関係があるのだ。

こうして書いていてつくづく思うのだが、現在の自分があるのは、いくつもの偶然の出来事、そして色々な人達のある意味助けがあった結果だという事だ。自分でも色々と頑張ってきたつもりだが、単に自分一人が頑張った結果現在の自分があるのではない、という思いが強くしている。自分の様な者が、人生を云々するのはまだ早いと思うが、全く明日何が起こるかわからないものだ。明日起きる事が、方向を180度変えてしまう事だって有り得る。面白いものである。
続きは次回に。
2004/11/25 戻る