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■第3話:自叙伝第2回目は「進路を決めるまで」のお話です。
 ビートポップスという番組には、かなり影響を受けた(と思う)。何しろ毎週欠かさず見ていたのだ。この番組を見れば「今、洋楽で何がヒットしているかが判る」という感じであった。当時の曲で印象に残っているものを言えば、カウンシルズ「雨に消えた初恋」ゾンビーズ「2人のシーズン」ユニオンギャップ「ウーマンウーマン」オーティスレディング「ドックオブザベイ」等々である。子供ゆえにレコード等は買えなかったが、恐らく姉や兄が小遣いを貯めて買ったのであろう、レコードが何枚かあった。
少し後だが、後に私の人生に重大な影響を及ぼすことになるクリームというバンドの「ホワイトルーム」が入っている4曲入りのレコードもあったが、当時はホワイトルームよりもチ・ライツの「オーガール」の方が好きだった。「モンキーズ」という番組もやっていた。これも良く見ていた。私はドラムのミッキー・ドレンツのファンだった。モンキーズの曲は今でもよく覚えている。音楽番組としては、他に「アンディウィリアムズショウ」なんかを見ていた記憶がある。でも好きだったのはビートポップスとモンキーズだった。

小学生の頃の私は、このように意外に音楽好きであると同時に「日本の古いもの」も好きだった。
一つは祖母にもらった古銭が影響しているのかも知れない。古銭には製造年が記してある。例えば明治23年の白銅貨があったが、これは大日本帝国憲法が発布された年である。「このお金が出来た年には、そんなことがあったのか。」などと思いを馳せたりするのである。同時に歴史にも興味があったからかも知れないが。
そんな訳で、中学生になると殆ど音楽には興味がなくなってしまったのだ。そうこうしているうちに、2つ年上の兄貴が京都と奈良に学校の修学旅行に行ってきて、仏像の本を買ってきたのだ。その本に載っていた仏像の写真を見て、大いに心を動かされた私は、仏像を作ってみようと思ったのだ。私は、今でもそうだが、当時から鉛筆を小刀で削っていて、切れ味が悪くなると自分で砥石で研いだりして、切れ味の良くなった刃物で気を削ることには快感を覚えていたのだ。材料は校舎の裏に捨ててあった古い机や椅子の廃材を利用した。ただしこの材料は樫の木だから大変堅く、仏像の製作にはとても苦労をした。仏像を作る上でもうひとつした苦労といえば、兄貴が買ってきた本に載っている仏像の写真を見てそれを真似て造るわけだが、大体正面から写した写真ばかりで、後ろから写した写真などは載っていない。だから仏像の後ろには服装がどういう事になっているのかがさっぱり解らず、他に本を買ったり、博物館に行って調べたりした事だった。まぁ、良い勉強にはなったが。
その頃になると、私が仏像を彫っている隣の机で、兄貴がビートルズなどのレコードをかけていたりする。中学生のくせに頭にポマードなんかつけて、ナンパな奴めなどと思いながら仏像製作に励んでいた。余談だが、この頃イヤでも聴かされていたビートルズの曲は全て覚えている。好きで聴いていた訳でもないのに、不思議なものだ。

 仏像と同時に、水墨画も好きだった。家にあった団扇の紙の部分を濡らして全て取り除き、自分で書いた墨絵を貼り付けたりもした。水墨画には、よく山奥の一軒家に仙人のような人物が居るのが書かれている。水墨画に憧れていた私は、自分もこのような生活が出来たら、と考えるようになったのである。今から考えれば、大変な変わり者の中学生であるが、当時は真剣だった。そして僧侶になり、日々修行し、自給自足の生活をすれば、水墨画の中のような生活も夢ではないと思ったのだ。将来は仏師(仏像を作ったり、修理したりする人)か、坊主か、どちらかになろうと思い至ったのである。全く変わった中学生だ。私が相談した中学3年の時の担任の溝江先生も、かなり驚いたことだろう。「将来、仏師か坊主かどちらかになりたいのだが、中学を卒業してからどうすれば良いか」というような相談だった。私の記憶では、先生曰く「もし仏師になりたいのであれば、高校には進学せずに、すぐに京都にでも行って本職の仏師に弟子入りした方が良いと思う。ただしこれからの世の中では、何になるにせよ高校ぐらいは出ておいた方が良いだろう。仏師、坊主どちらでも良いのであれば、坊主が良いのではないか。坊主になる為に必要な基礎知識が学べる選択科目のある高校もある」ということだった。
いよいよ、自分の将来を決定する時が来た、と思った私は、先生の言に従って、僧侶になる事を決めたのだ。そして結局、和歌山県の高野山という所に行く事になるのだが、ここから先は次回に譲ることにしよう。

2002/10/13 戻る