Vagabond Suzuki Website
profile shcedule colmun link bbs contact menu

■第7話:高野山から東京へ。一大転機が・・・。

 もう高野山はやめる、という考えに傾いていた私にとって最大の問題は、やめるのはいいが、ではやめて何をするかという事だった。何か別のやりたい事が見つかったという訳でもないし、このままでは周囲を説得することも出来ない。何しろ高野山に来る時には周囲に大反対されながらも、どうしても僧侶になりたいという思いがあったから、賛成をしないまでも気持ちは解る、そこまで言うのならまぁ頑張って行って来い、という雰囲気が何となくあった。ところが今度は、それがイヤになったからやめるというのである。このままでは到底周囲は納得しないだろう。それ以前に、自分が為すべき事を見つけなければいけない。一応これは困ったなと思ってはいたが、心の奥底では、何とかなるだろうとも思っていた。
当時、牧田君という知り合いも居た。彼は福井県出身で、別に将来坊主になるという訳でもないのに、寺に住んでいた。その牧田君が学祭も終わり秋が深まってきた頃、「高野山大学をやめて、東京で別の大学に入り直す」と言い出したのである。彼も趣味でギターをやっていて、学祭でも一緒に演奏したのだ。そんな事があった頃に、私は皆に、来年は自分も高野山大学をやめて東京に帰るのだ、というようなことを宣言したのである。皆は一様に驚き、特に芋生君は「自分も大学をやめて東京に行くから、東京で一緒にバンドをやろう」などと言い出したのだ。私は「ちょっと待て。俺はバンドをやる為に東京に戻る訳ではないので、君達は来なくても良い。」と言ったのだが、後に芋生君は、どうやって両親を説得したのかは知らないが、本当に東京に来てしまったのである。

 芋生君のことはともかく、先ず自分の事の方が先決問題である。親をはじめ周囲の人間、高校の先生(私が中学生の時に、自分が坊主になりたい旨を担任の先生に相談したのだが、この時高野山高校側の窓口になってくれた教務主任の備前先生は自分の師僧を紹介してくれたので、私の兄弟子に当たる)、そして誰よりも師僧を説得しなければならない、という極めて厄介な問題が横たわっていた。人間は誰でもそうだと思うが、自分がこうありたいと思う意志、言いかえれば我侭を押し通すことによって周囲の人間に様々な迷惑をかける。私の場合も例外ではなく、太子堂中学(私の母校である)始まって以来という特殊な進路に進む事によって、多くの人々に物理的、精神的負担をかけてきたのだ。その人達に何の挨拶もなしに、いきなり坊主も学校もやめて東京に帰ることは出来ない。などと考えたのはもっと後のことであって、当時の私には、今でもそうだが今よりももっとアホだったので、周囲の人間を思いやる気持ちよりも、こんな重大問題を反対するに決まっている自分よりも年上の人間に話せるかどうかということが問題だったのだ。

 とは言え、元々楽観主義というかバカというか、恐らくバカの方だと思うが、自分の問題としてもそれほど深刻に考えていなかった事も事実だ。結論から言うと、周囲を説得するという事をせずに、高野山をやめるということを一方的に宣言したのである。と言っても別に宣伝カーを仕立てて町内を放送して回ったり、有線放送に出演したりした訳ではなく、私の師僧に宣言しただけなのだ。師僧は保証人でもあるので、大学に退学届を出す時にハンコを押してもらわなければならない。それで仕方なく師僧に話をした訳である。もしも仮に、退学届というものに保証人の印鑑など必要無く、自分が書いて出せば良いだけだったとしたら、師僧にさえも相談せずに勝手に届を出して高野山をやめていたに違いない。

 何を言われるか、とビクビクしながら師僧に話をしたところ、意外にもアッサリとやめる事を承諾してくれた。婿養子に行く事を拒否した自分の弟子を、こいつはもうダメだろうと思っていたのかも知れない。とにかく、師僧がウンと言えばこっちのものとばかり、早速退学届の用紙を取り寄せ、師僧に印鑑をもらって、年明けには退学届を出してしまった。届を出してから周囲に挨拶に行くという無責任ぶりで、皆一様に呆れていたが、異口同音に「今までの4年間が無駄になってしまうではないか。高野山をやめてどうするのか」という、質問とも詰りともつかぬものを口にしたのは当然であろう。私は「今はただやめたいだけだ。別に何も考えてない。私はまだ若いので、やるべき事はそのうち見つかるだろう」などと阿呆丸出しの言葉を発したが、その結果周囲の大人達は益々呆れて返す言葉も無く、呆然唖然、といった風であった。中でも一番呆れていたのは、当然のことながら私の両親だった。両親にしてみれば、自分達の反対を押し切って「勝手にやる」と大見得切って出て行った奴が帰ってきたのである。呆れない方がどうかしている。当然喧嘩となり、私は家を出る事にした。今では考えられないが、中野区の南台というところに家賃が6,000円の部屋を見つけ、引っ越そうとしたが、兄が両親を取りなしてくれて家を出ずに済んだのだ。その代わり、以後何をするにしても、親は一切金を出さないという事になった。自宅に居るという事は、世間的にはカッコ悪いし自由もきかないという欠点はあるが、金がかからないという大きな利点がある。この時兄が取りなしてくれたことに、私はとても感謝している。

 金がかからないと言っても収入がゼロでは何も出来ないので、色々とアルバイトもやった。少しでも金を貯める為である。そして次の年には大学に入り直そうと思ったのだ。この時点では、将来何をやろうとか、何になろうとかは全く考えていなかった。とりあえず大学に入ってしまえば、卒業するまでは親が文句を言うと事はないだろうと思っていた。就職をする、という事は全く考えていなかったベースもまだやっていなかったので、音楽の事も念頭には無かったのだ。今から考えれば、音楽をやっていなかったら、本当に何になっていただろうと思う。私は運が良かったのだ。

 程なく、東京に出てきてしまった芋生君から連絡があった。先に東京に来ていた牧田君とも連絡がついたので、一度会おう、という事になったのである。この時はまだバンドをやろうなどとは考えていなかった。

2003/08/10 戻る