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■第4話:いよいよ高野山での生活がスタート。大変そうです・・・。

 という様な訳で、高野山に行く事に決めたのである。親兄弟は大反対、同級生には「何考えてんだ、こいつ」と思われたりしたが、私自身の決意は大変固いものであった。そして高野山高校を受験して、これは何の問題も無くパスしたが、将来僧侶になるのであれば師僧を決めなくてはいけない。といって高野山に知り合いの寺などある筈もないので、どうしようか、と思っていたが、高校の当時の教務主任だった備前有隆先生が自身の師僧である高野山の恵光院という寺の近藤住職を紹介してくれて、私も恵光院の弟子になり、寺に住み込んで学校にもそこから通う事になった。因みに高野山とは、和歌山県伊都郡高野町にあり、高野山真言宗総本山の金剛峰寺を中心とする小さな町であり、標高約900m、大阪などの町中に比べて平均気温が10度近く低い山の中である。そこに「宿坊」と呼ばれる大きな寺が53ヶ寺有り、その中の一つに私も住み込む事になった訳である。
その時から暫くは、フツーの音楽とは殆ど縁のない生活が続く。高校の音楽の授業はあるにはあったが、今よく考えてみても、授業で何を習ったのか全く覚えていない。音楽の先生には申し訳無いが。ただフツーではない音楽とは縁があった。高校は一応普通科であり、当然一般的な授業もあるが、選択科目の中に普通の大学に進学したい奴は英語や数学、就職したい奴は珠算や簿記、坊主になりたい奴は読経や真言宗の教義、梵習字、つまり梵字の書き方を習う授業などがあり、私も坊主コースの選択科目を取っていたのだが、その中に「声明(しょうみょう)」という授業があった。要はお経なのだが、メロディーが付いているのである。何故か私はこの声明の成績が良かったのだ。この事が後に私の人生に一大転換を齎す原因の一つとなるのである。声明は授業でやるだけでなく、毎日寺でもやるので、まぁ最も身近な音楽という感じであった。勿論当時は声明をやっている最中でも、音楽をやっているという意識はなかったが。

 さて、寺に住み込んでそこから学校に通うという日々が始まった訳だが、最初の数ヶ月は無我夢中で過した。何しろ忙しいのである。朝は必ず6時前には起きて本堂でお勤め、つまり声明及びお経を読む。宿坊だから宿泊客がいるので、起こして回って、布団を上げて、食事を運び、給仕をし、食事が終わったら膳を下げて、宿泊客が帰れば部屋を掃除して、大慌てで朝飯を食って学校に行くのである。
昼食は毎回寺に帰って食べるのだが、これには理由があり、昼食だけを食べて先祖の供養をして帰るというお客も沢山居るので、その仕事をする為に帰るのである。時間帯が違うだけで、やる事は朝と全く同じだ。自分達が昼食を食べるのは、そのついで、といった感じだった。
そして大慌てで午後の授業を受けに学校へ戻る。授業が終わったら、大急ぎで寺に帰らなければならない。その日の宿泊客が来るからである。お客の部屋割り、風呂の用意、浴衣配り、そして用意の出来たお客から順番に風呂に入ってもらう。大きな風呂ではあるが、全員が一度に入れる程ではないので、そこらへんのことを勘案しつつ、お客に声をかける。そろそろ風呂に入り終わる頃から、大広間に夕食の膳の用意をする。夕食は二の膳付きだから、人数の倍の数の膳を運ばなければならない。200人泊まりに来たら、膳の数は400である。そして給仕をし、先祖供養の受付をしつつ、部屋割りの人数に従って部屋に布団を敷く。お客にしてみれば、広間での食事が終わって部屋に帰ってみると、布団が敷いてあるという寸法である。
お客の食事が終われば膳を片付け、明朝のお勤めの時に配る先祖供養の証文を作る作業もある。これらの仕事の合間を縫って自分達の食事を取る。食事の後に風呂に入るお客もいるし、部屋に酒を持って来てくれとか、何か食べ物を持って来てくれというお客もいるので、宿泊者全員が寝静まらなければ、我々の仕事は終わらない。最後に寺中の戸締りをして、風呂に入り、ついでに風呂の掃除をしてやっと終わりである。大体いつも12時近くになる。今書いたのは団体客の場合だが、個人というか、もっと小人数のお客も居るので、それぞれに応じた仕事をしなければならないのである。
季節によっても仕事の内容が違う。夏は涼しいから良いが、冬場はとても寒いので、それなりの準備をしなければならない。例えば冬場に団体客が来ると、人数分の湯たんぽを用意するのである。寺には瀬戸物の湯たんぽが沢山あった。これが重いのだ。

 高校1年生の時は、住み込みの小坊主が私を入れて同級生ばかり3人しか居なかったので、本当に大変だった。ベンキョウなどしている暇は全くない。食事もゆっくり食べた事は殆どない。おかずは殆どタクワンのみだが、米の飯だけは大量に炊くので、私は毎食ラーメンの丼に大盛り3杯食べていた。学校には寝に行っているようなものだった。日曜日や休みの日は、学校がない分、寺で仕事のみなので、余計大変だった。大体このような生活が以後3年間続くのである。最初はラジオも持っていなかったので、フツーの音楽とは本当に縁の無い生活だった。当時はエレクトリックベースという楽器が存在するという事すら知らなかったのだ。

2002/12/04 戻る