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■第2話:今明かされる(?)バカボン鈴木の自叙伝第1回目・・・です。
 周囲にいる人々のお陰で自分のHPを立ち上げることになり、こういった雑文を書くことになった訳だが、自分では何を書いて良いやら解らない、という状況の時に、「世の中の矛盾を鋭く突くような文を書いてくれ」といったような大それたリクエストを出してくれた人が居て、一時は自分でもある程度その気になったものの、それこそ何から書いて良いやら見当も付かず、あれこれ考えていたのだが、ふと良く同じ質問をされるという事を思い出した。
「昔はお坊さんだったそうですね。それがどういう経緯で音楽をやるようになったのですか?」というような質問だ。しかし、この質問に正確に答えようと思ったなら、相当長くなってしまうに違いない。とても1回や2回で書ききれる量ではないと思うが、自分としては、これはいいネタが見つかった、このネタでしばらくは保つぞ、と密かにホクソ笑んでいるところである。大それたリクエストにはいずれ答えるとして、当面はこのネタでご勘弁頂きたいと思う。自分の生い立ちも含めて、やや詳しく書こうと思っているので、よろしく。

私は昭和31年に、東京の世田谷区太子堂という所で生まれた。
若者の「最もすみたい街」で上位にランクされている三軒茶屋の近くである。当時の太子堂辺りは現在のイメージからは程遠く、少なくとも私が住んでいた周辺は、どちらかというと貧乏人の長屋が立ち並ぶ、ドブ臭い街、という感じであった。家の前の路地から通りに出ても、その道はまだ舗装されていなかったし、ドブにはイトミミズが居た。立ち並ぶ家々も雨漏りなどは当たり前、下手をすると出入り口に筵が下がっているような感じであった。私の家には勿論風呂がなかったので、近所の銭湯に行く訳だが、歩いて5分以内に4軒もの銭湯が当時はあった。しかも、どの銭湯に行っても芋の子を洗うような超満員である。これは、周辺の住民の殆どが自宅に風呂もないような貧乏人ばかりだったという事を物語っている。

 私の父親は、建築関係の職人だった。正式には防火建築業というらしいが、所謂ラス屋である。ラス屋というのは、最近の新築の家ではほとんど見なくなったが、一昔前にはモルタル建築というのが主流で、外壁にモルタルというコンクリートその他の材料を混ぜたものをコンプレッサーで吹き付けて仕上げるのだが、その下地に塗る生コンのそのまた下地に張るフェルトという防水紙並びに金網のことをラスというのである。所謂サブロクと呼ばれる大きさで、大体畳1枚の大きさだが、金網を筒状に巻いて(防水紙の方は最初から巻いてある)、それらを自転車の荷台に載せて、あちこちの現場に出かけるのである。 足場仕事だから雨の日は休みだが、私の記憶では鎌倉や大宮といったところまで出かけていたから、かなり大変な仕事だったに違いない。

一方、大酒飲みで酒癖が悪く、酔っ払って大暴れする等は日常茶飯事であった。また、機械いじりが好きで、カメラという趣味を持っていて、新しい物好きで音楽好きという一面も持っていた。若い頃には趣味でバイオリンを弾いていたらしいが、終戦直後の混乱期に母親と結婚して、何とかせねば、と自宅で営んでいた旋盤工場で左手の薬指の先端を切断してしまい、やめたという事である。ちなみに戦前の一般家庭にはどこの家にもバイオリンやマンドリンがあって、父親の実家もそうだったらしい。父親は男ばかり4人兄弟の長男だが、その末の弟がクラシックギターを弾いていて、そのままプロになった。

 家ではよく音楽がかかっていた。安いポータブルプレイヤーで、クラシックのレコードをかけるのである。針が飛ぶと、アームの上に10円玉を乗せて聴くようなやつだ。そのプレイヤーには、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」、ヨハンシュトラウスのワルツもの、ラベルの「ボレロ」、その他いろいろなクラシックが、或いは日本人の立川清登(字が違っていたらすみません)や五十嵐喜芳らが歌うイタリア歌曲とか、ロシア民謡とかが、いつでもぐるぐる回っていたものだった。
私としてはそれらを聴きたくて聴いていた訳ではないので、いつも退屈に感じていたが、子供の頃の記憶力というのはすごいもので、当時聴かされていたクラシックのメロディーを殆ど覚えているのである。多くの男の子の常で私も父親とは仲が悪かったが、兄弟3人の中で容貌や体型その他の形質を、好むと好まざるとに関わらず、最も色濃く受け継いでいる私が、あるいは音楽好きという面も受け継いだのかもしれない。ただし、学校の音楽の授業は大嫌いで、成績も常に最低ランクであった。小学校3年の時に、音楽の藤本先生(何故か名前を覚えている)が、どういうつもりか、音楽(の授業)も嫌いで成績も悪い私の親に、こいつにピアノを習わせるといい、と勧めたことがあるらしい。
当時、親にピアノを習う気があるかどうか聞かれた私は、勿論断固拒否した。その頃男のくせにピアノを習うなんて事は、女の腐ったようなヤツがやる事であり(女性の皆様すみません)、知り合いにバレたりしたら一生口もきいてもらえないだろう、というアホな常識に支配されていたからだ。この事は現在でも深く後悔している。ただし今から考えると、当時の家の経済状態では、仮に私がピアノを習いたいと言っても実現は非常に困難だったのではないかと思う。これより少し後ぐらいだと思うが、私の姉と兄が音楽が好きで、テレビで「ビートポップス」という番組をやっていたが、それを毎週観ていて、私もそれに付き合わされて見ていた。この辺のことは、次回書こうと思っている。

 追伸:6月の入退院騒ぎに際しては、多くの方々からお見舞の言葉を頂き、本当にありがとうございました。この場で御礼を申し上げたいと思います。体の方はもうすっかり立ち直り、飯も食っております。また色々とライブもありますので、見に来て下さい。よろしくお願いします。

2002/09/07 戻る